ブルーマーリンパートナーズ代表取締役、山口揚平氏のキャリア

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山口揚平さんのキャリア「自らの体験を通じて学び、血肉化した知を、社会に還元する」という生き方。

 

自らも志向する実践的研究者としての生き方と重なり、参考にしたいと思ったのでシェア。

 

彼は、20代で企業再生という現場で実践を積み、三十代になると同時に「新しい株の本」という本を出版。そこから、自らの専門的スキルである企業分析というメタの領域での起業をする。三十代半ば以降は様々な会社における新規事業創造の実践を行ってきた。それと並行して、それらの体験を通じて学び、血肉化された知を社会に還元するべく、これまでに9冊の本の執筆、数多くの講演活動を行ってきた。

 

最近、知りたいと思っていることは、どうして、研究に実践が必要だと考えるのか?それぞれの人の考えを聞きたい。

人にもよると思うけど、研究は社会に還元していくことで意味を持つという考えの人。

実践を伴う「知」こそが社会に活きる知と捉えている人。

研究をしているだけでは、いてもったてもいられなくなった人。

両方やることで、コネクターになろうとしている人。

自分の経験をグローバルな文脈に立ち上げて、より多くの人に参考にしてもらいたい人。

次世代に残していきたい人。

色々いると思う。

なので、そういう人の考えがしりたいな。

 

 

 

アバウトな夢を持つこと

夢をアバウトに持つとロクなことがない。

それでも、夢はアバウトに持つ方が楽しいと思う。

アバウトな夢がすべての始まりだ。

別の言い方でいうと、何かになりたい、とか、あそこに就職したいとか、そういう社会の中で勝手に作られている枠で考えるのでなはなく、イメージを持って夢を考えるということだ。

つまり、絵で書いたりとか、歌に歌ったりとか、単純に夢を職業とかの単語で表現する以外のやり方で表現できることが楽しい夢の持ち方ではないだろうか。

このようにして、アバウトに夢を持ち始めるとロクなことがない。

なぜなら、このアバウトな夢には明確なモデルが今の自分の前に用意されているわけではないからである。

つまり、TOEICで900点を取るためにやるべきことは参考書に明確に書いてあるし、それを達成して来た人も簡単に見つけられるから具体的な行動をすぐさま、的確に、明確に取ることができるだろう。

 

しかし、楽しくてワクワクする夢は絶対にアバウトなはずである。

それは、人間の想像力の限界があるからもしれない。

心と言葉は繋がっているようで繋がっていないからかもしれない。

心で感じたことをストレートに表現されたものに出会う機会を持てていないからしれない。

少なくとも、自分はそのアバウトな夢を言語化するのにめちゃくちゃ時間と労力とお金がかかった。

TOEICで900点を取ることとアバウトな夢を形にしていくことと、どちらもできれば社会にとって役に立つ。

でも、どっちが楽しいかというと後者かなとも思う。

どっちも選択できるなら、後者を選択するかな。

しかし、現実的にはこの選択は大学生になってからでは遅かったりもする。

現実的には、大学生の就活生になってから、アバウトな夢を見だしても、それを形にしていく前に働いてお金を稼がないといけない状況になっていく。

だから、高校生の頃から、アバウトな夢を持って、それを社会の中で形にしていくことをやっていくと良いと思う。

別に、毎日、その夢に対してやるべきことが明確に浮かばなくても幸いにも高校性は目の前にやるべきことがあるので退屈しないだろう。

 

そして、その夢を形にしていくためのアイデアが本当に浮かんできたらそれに没頭すれば良いと思う。

自分自身で自分の方向性を定めていく作業は大変だけど、楽しいし、積み重ねが大きなものにもなる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

サステイナブルカフェが地域コミュニティを作り変える日

理想から現実へ。

確実に、アデレードに来たことで、自分の目指している方向性や、具体的なキャリアを見れるようになって来ていると感じる。

研究を現実に落とし込み、互いに並走していくとはこういう感じなのかというのが、徐々にクリアになってきた。

今日は、サステイナブルカフェによる素晴らしい取り組みを当事者から聞くことができた。

これも、初日に訪れた教授に紹介してもらった取り組みだ。

そして、この取り組みは、その先生とともに並走で行われているもので、先生からも少し聞いていたが、実際に足を運びその実態について聞くことが出来たことで、よりそのイメージを持つことができた。

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めちゃくちゃシンプルw

名前は、Sarah’s sister’s Sustainable cafe という。

まさに、名前からサステイナビリティ溢れるが、これはマーケティングの一環で、社会的貢献を強調することで顧客の確保を狙おうとするものだ。このようなソーシャルマーケティングと呼ばれる手法では結局はお金が最大の目的になることがあったりする場合もあるので、一概には言えないですが、今日話を聞いたところ、しっかりとやっているようだ。

このカフェの特筆すべき取り組みは、コミュニティを巻き込んでそのまま、サステイナビリティに対するコミュニティの意識の向上をしようとしている点。

カフェとして、食材とサステイナビリティという観点から行なっている。

コミュニティの意識の向上とは、要するに、その地域に新しい文化を作っていくということである。

地域に新たな常識を作っていくのだ。

今の大人たちに働きかけることは勿論大切なのだが、遠回りのようで最も効率的なのが、若者世代への働きかけだ。

だから、このカフェは学校とコラボをする形で様々な働きかけをしている。

サステイナブルなんていうワードを大人に言っても理解するのに、10年くらいかかるかもしれないけど、子供ならすぐに理解できる。

子供が大人に教えるという構図にもなっているようだ。

その他にも子供の方が大人よりも秀でているポイントがいくつもある(詳細忘れた)。

それを組み合わせている。

 

自分が立ち上げたオランアースでやっていきたいのは、コミュニティの文化を良い意味で、グローバルにしていくということだ。

これが、機能するのはソーシャルマーケティングの側面からも論じることができる思う。

でも、それよりも、地域の文脈(歴史)をしっかりと読み解いて、その流れで、地域のnarrative(物語)をグローバルに立ち上げ、再構築していくことで、訪れた人に学びと気づきを与えてけるコミュニティが構築されていく。

これにより、地域に健康と繋がりをもたらし、地域の文化が守られ、環境が守られ、地域の発展に貢献し、さらにコミュニティと観光客の関わりが異文化の理解、学びの促進となり、地球規模のマインドセットを持った人を生み出すものになっていく。

これがソーシャルなツーリズムのイメージだ

このコミュニティを巻き込んだ、文化の創造は地域にユニークさをもたらす。

これが、現代の観光創造じゃないか。

観光客が求めているのは、真のユニークさであり、地域の人が作り上げていくコミュニティそのものなのだ。

他の地域がやっていることを真似っこするのはやめて、このように本質的に地域を見て、創造性あふれる地域づくりをしていく事例をたくさん作っていきたい。

 今日の話でも、話してくれた人が地域の歴史を今必死に学んでいると言っていた。

 

グローバルのレベルで考え、それを地域の文脈に落とし込んで、新たなコミュニティを構築していくプロセスは生半可ではできない。

このレベル間で考えていくためには、研究者としてのエキスパートのナレッジが必ず必要になっていく。

さらに、実行していくには、それに共鳴するプレーヤーが必要だ。

志を共有し、さらに、そのビジョンを互いにシェアし、研究者とプレーヤーが共同していくのは、簡単なプロセスではないと思う。

しかし、これこそが、最近言われている産学民協働の本質的な姿ではないだろうか。

 

このサステイナブルカフェで、お話をしてもらったStuart氏にもマンパワーを感じた。

人の持つパワーが、社会をポシティブな方向性へと導くためには、協働が必要だ。

いろんなリソースの協働プロセスにも感動を感じる。ワクワクする。

 

その協働には、方向性が必要だ。

方向性を生み出すナラティブが大きなキーワードになると仮説を持つ。

 

最近の注目ワード:物語、協働、観光、ボランティア、サステイナビリティ、テクノロジー

 

 

 

 

 

 

 

 

アボリジニ人への謝罪をする日。

今日は、2月13日、Aniversary of apology to the stolen generationの日でした。

僕は、その日をアデレードのとあるコミュニティで開かれたイベントに参加することで、状況を感じてきました。

また、このイベントには、昨日訪問させてもらった教授に紹介してもらい、一緒に参加することになりました。
まず、これはどういう日なのか簡単に説明します。

「盗まれた時代」と言って、アボリジニ人の親とその子供を強制的に政府や教会の手によって引き離され、子供たちは強制収容所や孤児院に送りこまれるということが、行われていた時代のことです。

おおよそ、1869年から1969年頃までと言われています。

なので、今の親世代はまさに子供時代に親から引き離されて育った時代となります。

時代背景として、白人が文明的にアボリジニ人よりも優れているという「優生学思想」に基づいて行われてきました。

今からたったの40年前まであったのか!?と日本人なら思うかもしれません。

しかし、人種差別は全然まだまだあります。白人以外はいない方がいいと考える人がいます。

これは、その先生も言っていたけど、根深く社会に根付いたもので、公式的には和解をしているけれど未だに根深く残っている現実があるということでした。

かくいう、先生もアメリカのカリフォルニアで人種差別の家庭に生まれ育って、24歳のある体験をするまでは本当にその思想を信じていて、そこから31歳くらいまで猛勉強してようやくそれが無くなってきたということでした。

そのある体験が、まさに、「出会い」なのであり、それが先生の「ツーリズムを通じたひとびとの和解」や「ツーリズムを通じた平和」という研究活動に繋がっているみたいです。

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あまり、うまく撮れた写真は無いけど、これが当日の様子です。

まず、少し街を歩いて、前で人が話して、フリーでご飯を振舞って、ちょっと歌うたってというシンプルな感じだったけど、いろんな人種のそこのコミュニティの人たちが100人くらい集まってアボリジニの和解をしていた風景はとても興味深かった。

まさに、その風景を目の前で体験したのだ。

終わった後には、横の周りの人に「apology」と謝罪の声も聞こえた。

まさに、コミュニティの活動という感じで、このようなイベントが地域で行われるのは、もしも自分がアボリジニ人として地域に住んでいたら、とても居心地が良くなるだろう。

会場にはもちろん、アボリジニ人だけではなく、いろんな人種の人たちがいた。

「自分の住んでいる地域には、こういう人たちがいる」そう思えることでどれだけ安心感を得られるのかは、想像に難く無いだろう。

イベントでは、先生の友達の夫婦にあって、その4人でお話しすることができました。

この夫婦は、アーバンプランニング系の仕事をしていて、エコビレッジなどにも携わっているらしく、今度は、日本の里山で6週間ほどステイして色々学びたいと言っていました。

 

この二日間を通じて、得たキーワードは、「クリエイティブ」と「ビューティフル」という2つの言葉でした。

これから、どんなことをやっていくにしろ、クリエイティブでビューティフルな仕事をできるといいなと思いました。

だれもやっていないようなこと、枠組みを取り払って思考したことを、美しい心を持ち、それを貫ける努力をして、自分の仕事に落とし込む。

こんなイメージ。

これが、先生が研究を通じて集めている事例の根幹にあるものだと思いました。

先生は理想を語ります。

今日の話でもあったけど、夫婦が、「現実的にいうと〜〜〜」と言ったことがあったが、先生はこれに対して、自分の仕事の役としては、物事を、社会をクリティカルに捉えて、理想の状態を描いていくことが役割だと言っていました。

もちろん、現実は見る必要があるのだけど、理想を見るという役割も社会では必要なのです。

そして、実際に、そのような研究などをみて、社会のなかで実現していっている人がいるのです。

自分も先生と話していき、理想を見ることのネガティブな側面も含めて聞きながら、それでも社会をポジティブに動かせるように頑張っていこうと思えました。

冷静に見て、できる。

社会のメインストリームは大きくてそれを変えていくのは難しいけど、そこにめがけて、変えていける小さなことは山ほどあります。

クリエイティブにビューティフルに仕事をしていきたいと思いました。

会いたかった人に会って、考えた、自分の中の標準

ブリスベンからアデレードまで飛行機で飛んできた昨日。そして、今日は待ちに待った教授との面会があった。多忙の中1時間半程時間を取ってもらい話すことができた。

だれかの紹介ではなく、自分の中の独断の判断で、この人だ!って思った人にアポイントを取って話に行くということはこれまでと何度かしたことがあるが、毎回、大きな気づきをもらえる。

そして今回、自分の将来のキャリア選択にも間違いなく影響を与えるだろうと思う出会いだった。

この方に会おうと思った、元々は、研究をしている内容にとても興味を持ったのがきっかけだった。

そして、次第にその研究を行なっている個人としての先生に興味が移っていった。

それは志の部分で自分ととても似ていると思ったからだ。

だから、この人がどんなことを考えて今のキャリアを選んで、今の研究を始めて、今に至るのかを聞き、

さらに、その人に直接自分のキャリアへのアドバイスをもらうことで、今思い描いている将来への大きな一歩になると考えるようになった。

 

この仮説を持って実際に話にいった。

まず、お互いの関心について話し合い、なぜ、今の状態に至ったのかを共有した。

それに伴って、自分が留学中にインターンシップをするということでそのための色々な人や場所の紹介をしてくれた。

自分が観光を通じた社会へのポジティブインパクトをやっていきたいということで、それにまつわる色んなところの人を教えてくれた。

 

そして、いよいよロングスパンのキャリアの話になった。

自分はどの街を選択していくのがベストなのか?

まず聞かれたのが、あなたの家庭は裕福かそうではないか?ということ。

「ほう、うちは普通の家庭だ」

そして、お金があれば道は開かれているが、なければ目の前の進める道を選んでいくことを言われた。

意外にも現実的なことを言われて、「おう」となった自分がいた。

そして、もう少し話を聞いていくと、先生自身が裕福ではない境遇で、できる最善の道を選んで来て今に至ったということだった。

そして、今の状況も決して望んでいるものではないということだった。

実は先生はtourism managementの中でツーリズムを通じた平和構築や民族和解などをやっていて、そういう意味で、そのコミュニティの中では逆行した形での方向性を取っているということになる。

これが、先生を苦しめている。

若い時こそ、そういうものに反発するエネルギーも持ってやってこれたが、今は年を取っていくうちにその体力も気力も失せていくと言っていた。

これだけ素晴らしいことをしているのに、周りの環境によって、それだけ充実感が削がれるということだ。

自分はこの話からいくつかのことを考えた。

まず、周りの仲間の重要性を強く感じた。

心理学者のアルフレッドアドラーが、貢献をしているという共同体感覚を持つことが人生の充実感に不可欠だと主張している。

そして、この貢献感をあるコミュニティの中で持つためには、コミュニティの中である種の方向性、つまり、求めるものが定まっていて、それに貢献する形で感じることができる物だと考える。

マネジメントの学部での価値観の根底には、金銭的利益を最大化させることがあるだろう。

これに貢献できる研究がその学部で認められていくのは疑いのないことだろう。

でも、一方では、もっと福祉的な貢献に寄与する研究をやった方が賞賛される場所だってある。

平和の構築にツーリズムが役立つことを証明して、それで喜んでくれる人たちが周りにいる環境の方がいいに決まっている。

世の中では、自分の居場所というものがあり、自分が成果を出すべき場所があり、認められる場所がある。

だから、その居場所を探しにいくことがある種の自分の探しの旅と言われるものの終点なのかとも考えられる。

また、一方で、これが分野や方向性、価値観の違う集団を交わらせずに、社会を分断を引き起こす1つの原因ではあると思う。

でも、社会の分断の本質はもっと、別のところにあるような気がする。それはわからないけれど。

 

 

ぼくは、この一連の思考を通じて、要するに、自分はどこに標準を置くのかに帰結するという結論に達した。

自分が、どのコミュニティに貢献するのか?

これが問いだとして、そのアンサーが

標準を決める。

自分は、そのコミュニティを世界にしたい。

何のためにやるのか?それは世界のためにやるのだ。

それを貫ければ、自分は幸せだと思う。

でも、どれだけすごいと思った人でも、そうやって弱ることはある。

でも、こればっかりは頭の良さ悪さ、能力の高さ、低さの問題ではない。精神的なものだと思う。

最近、キリスト教を肌で感じていて、「信仰」というものについて考える機会が多いが、つくづく何かを信じるということは人間にとってある種の努力を有する行為なのだなと感じている。

なにかを信じることと、人の精神的充足は間違いなく関係しているばずだけど、世の中では宗教の信仰が先進国の中では一般的に遠くなっていっている。

かといって、別で、信じるものができたのかというと、そんなわけでもないようだ。

 

かくいう自分もオーストラリアに来て、自分と志を共にする同士が周りにいないことで、やり切れなさを感じていた。

それは自分の弱さだし、強くなれば解決できそうなものだ。

でも、単純に強さを磨くことでこの問題を乗り越えようとするのではなく、別の方法を試してみたい。

それは、志となるコミュニティの標準を世界に持った共同体を育んでいくということである。

周りにも同じ同士がいるんだけど、それぞれがそのコミュニティの枠なんか関係なく、世界のために必死に考え、動く。

それでも、そのコミュニティの中には共有価値観としての絶対的なものがある。

 

難しいテーマなので、今日はこの辺にしておく。

 

 

 

もう一つキャリアに関して聞かれた質問として、あなたはアントレプナーとしてやりたいのか?それとも研究者としてやりたいのか?

があった。

自分は、両方をやりたいと考えてきた。

ツーリズムを通じて、社会にポジティブなインパクトを与えていくためには、自分が実践をしていくのか、色んな情報とかを集めて、理論にして、人に伝えていくのか、といった分け方だろう。

両方できないだろうか?

なんで、こんなに両方やりたいんだろう。それは、自分の中で探究心と実際にやりたいという心が両方あって、だから、両方やりたいんだって認識している。

そこに、なにか、「意味」があるからそう思ってたと思ったりもするけど、結局は両方やりたいって思うから両方やりたいんだろう。

一個人の人間としてみればそのようなものである。

要するに、もっと、深いところに自分の軸を築いていきたい。

研究者なのか、アントレプナーなのかの問題ではないと自分では結論づけている。

その深い部分を表に出しながらやっていきたい。

 

 

 

 

【自給自足の村×ツーリズム=100%ソーシャルなツーリズムという説】

先日、連絡を取っていた一人にアフリカで観光ビジネスをスタートさせた人で、いつかはお金の必要のない村をつくりたいという人がいた。

ふと、お金の必要のない村でツーリズムを振興しているところってあるのかな?と思った。

お金が必要ないけど、観光客との関わりをもつ。ツーリズムで街を振興していく。

これは、ソーシャルなツーリズムの究極系になるんじゃないかなと。

お金の必要のない村であっても、街に観光客を出迎える。

街の人にとってはそれがお金ではない別の何かのニーズで100パーセント関わりを持っている。

こういう場所ってないのかなあ。

【顕示的消費を諦めていく時代の観光】

日本では、GDPが衰退していく中でこれまで通りの消費欲は無くなっています。そして、必要最低限のニーズを満たす消費しかしなくなっていきます。このように顕示的消費がこれからできなくなって行く中で、観光には何が求められて行くでしょうか?
今までみたいに、みんなが行っているからとか自慢したいし有名だから行こうという観光は減少していきます。そもそも観光は人々にとって必要最小限なのでしょうか?
人のニーズに対する捉え方を変えて、考えてみる必要があります。
例えばそれは、人の居場所作りじゃないかな。
自分が住んでいる場所以外に拠り所となるような場所を観光を通じてつくる。
こんな場所に観光地をして行くことが、これからのツーリズム産業に求められると思います。

僕のイメージでは、地方の観光では、地域にとって観光を推進することそれ自体に意味のあるものになっていくべきじゃないかなと思います。地域観光に利益を中心に考えること自体がナンセンスとなります。それは時代の背景からも言えることだと思います。
地方の観光地というのを一方的な消費の場ではなく、ホストとゲストで一緒に作っていけるような新しいコミュニティのモデルがイメージが徐々に見えてきました。