会いたかった人に会って、考えた、自分の中の標準

ブリスベンからアデレードまで飛行機で飛んできた昨日。そして、今日は待ちに待った教授との面会があった。多忙の中1時間半程時間を取ってもらい話すことができた。

だれかの紹介ではなく、自分の中の独断の判断で、この人だ!って思った人にアポイントを取って話に行くということはこれまでと何度かしたことがあるが、毎回、大きな気づきをもらえる。

そして今回、自分の将来のキャリア選択にも間違いなく影響を与えるだろうと思う出会いだった。

この方に会おうと思った、元々は、研究をしている内容にとても興味を持ったのがきっかけだった。

そして、次第にその研究を行なっている個人としての先生に興味が移っていった。

それは志の部分で自分ととても似ていると思ったからだ。

だから、この人がどんなことを考えて今のキャリアを選んで、今の研究を始めて、今に至るのかを聞き、

さらに、その人に直接自分のキャリアへのアドバイスをもらうことで、今思い描いている将来への大きな一歩になると考えるようになった。

 

この仮説を持って実際に話にいった。

まず、お互いの関心について話し合い、なぜ、今の状態に至ったのかを共有した。

それに伴って、自分が留学中にインターンシップをするということでそのための色々な人や場所の紹介をしてくれた。

自分が観光を通じた社会へのポジティブインパクトをやっていきたいということで、それにまつわる色んなところの人を教えてくれた。

 

そして、いよいよロングスパンのキャリアの話になった。

自分はどの街を選択していくのがベストなのか?

まず聞かれたのが、あなたの家庭は裕福かそうではないか?ということ。

「ほう、うちは普通の家庭だ」

そして、お金があれば道は開かれているが、なければ目の前の進める道を選んでいくことを言われた。

意外にも現実的なことを言われて、「おう」となった自分がいた。

そして、もう少し話を聞いていくと、先生自身が裕福ではない境遇で、できる最善の道を選んで来て今に至ったということだった。

そして、今の状況も決して望んでいるものではないということだった。

実は先生はtourism managementの中でツーリズムを通じた平和構築や民族和解などをやっていて、そういう意味で、そのコミュニティの中では逆行した形での方向性を取っているということになる。

これが、先生を苦しめている。

若い時こそ、そういうものに反発するエネルギーも持ってやってこれたが、今は年を取っていくうちにその体力も気力も失せていくと言っていた。

これだけ素晴らしいことをしているのに、周りの環境によって、それだけ充実感が削がれるということだ。

自分はこの話からいくつかのことを考えた。

まず、周りの仲間の重要性を強く感じた。

心理学者のアルフレッドアドラーが、貢献をしているという共同体感覚を持つことが人生の充実感に不可欠だと主張している。

そして、この貢献感をあるコミュニティの中で持つためには、コミュニティの中である種の方向性、つまり、求めるものが定まっていて、それに貢献する形で感じることができる物だと考える。

マネジメントの学部での価値観の根底には、金銭的利益を最大化させることがあるだろう。

これに貢献できる研究がその学部で認められていくのは疑いのないことだろう。

でも、一方では、もっと福祉的な貢献に寄与する研究をやった方が賞賛される場所だってある。

平和の構築にツーリズムが役立つことを証明して、それで喜んでくれる人たちが周りにいる環境の方がいいに決まっている。

世の中では、自分の居場所というものがあり、自分が成果を出すべき場所があり、認められる場所がある。

だから、その居場所を探しにいくことがある種の自分の探しの旅と言われるものの終点なのかとも考えられる。

また、一方で、これが分野や方向性、価値観の違う集団を交わらせずに、社会を分断を引き起こす1つの原因ではあると思う。

でも、社会の分断の本質はもっと、別のところにあるような気がする。それはわからないけれど。

 

 

ぼくは、この一連の思考を通じて、要するに、自分はどこに標準を置くのかに帰結するという結論に達した。

自分が、どのコミュニティに貢献するのか?

これが問いだとして、そのアンサーが

標準を決める。

自分は、そのコミュニティを世界にしたい。

何のためにやるのか?それは世界のためにやるのだ。

それを貫ければ、自分は幸せだと思う。

でも、どれだけすごいと思った人でも、そうやって弱ることはある。

でも、こればっかりは頭の良さ悪さ、能力の高さ、低さの問題ではない。精神的なものだと思う。

最近、キリスト教を肌で感じていて、「信仰」というものについて考える機会が多いが、つくづく何かを信じるということは人間にとってある種の努力を有する行為なのだなと感じている。

なにかを信じることと、人の精神的充足は間違いなく関係しているばずだけど、世の中では宗教の信仰が先進国の中では一般的に遠くなっていっている。

かといって、別で、信じるものができたのかというと、そんなわけでもないようだ。

 

かくいう自分もオーストラリアに来て、自分と志を共にする同士が周りにいないことで、やり切れなさを感じていた。

それは自分の弱さだし、強くなれば解決できそうなものだ。

でも、単純に強さを磨くことでこの問題を乗り越えようとするのではなく、別の方法を試してみたい。

それは、志となるコミュニティの標準を世界に持った共同体を育んでいくということである。

周りにも同じ同士がいるんだけど、それぞれがそのコミュニティの枠なんか関係なく、世界のために必死に考え、動く。

それでも、そのコミュニティの中には共有価値観としての絶対的なものがある。

 

難しいテーマなので、今日はこの辺にしておく。

 

 

 

もう一つキャリアに関して聞かれた質問として、あなたはアントレプナーとしてやりたいのか?それとも研究者としてやりたいのか?

があった。

自分は、両方をやりたいと考えてきた。

ツーリズムを通じて、社会にポジティブなインパクトを与えていくためには、自分が実践をしていくのか、色んな情報とかを集めて、理論にして、人に伝えていくのか、といった分け方だろう。

両方できないだろうか?

なんで、こんなに両方やりたいんだろう。それは、自分の中で探究心と実際にやりたいという心が両方あって、だから、両方やりたいんだって認識している。

そこに、なにか、「意味」があるからそう思ってたと思ったりもするけど、結局は両方やりたいって思うから両方やりたいんだろう。

一個人の人間としてみればそのようなものである。

要するに、もっと、深いところに自分の軸を築いていきたい。

研究者なのか、アントレプナーなのかの問題ではないと自分では結論づけている。

その深い部分を表に出しながらやっていきたい。