ブッシュフード/ブッシュタッカーに隠された真実。
オーストラリアで観光客にも親しまれている「ブッシュフード」というオーストラリアの地域で食べられてきた食べ物がある。このような、食べ物は観光の商売道具として、「狩猟採集」のようなイメージと共に私たちの楽しみの一部となっている。観光客だけでなく、オーストラリア人も同じようにブッシュフードが持つ原始的なイメージを消費している。
このような食べ物の商品化はときに大切なものを失わせる。しかし、この流行はアボリジニ人と非アボリジニ人の共創の未来をつくれるチャンスでもある。
あなたが口にして楽しんでいるブッシュフードはなぜ今食べることができるいるのでしょうか?この問いを出発点に、私たちはオーストラリアの知られざる、しかし、それは隠されてきた歴史的事実を知ることになる。
ブルースパスコは著書「ダークエミュ」においてアボリジニ人が家をつくり、ダムをつくり、種まきをし、土地を耕し、灌漑をし、川の流れを変え、衣服を縫い、そして平和と豊かさを生み出した政治システムを構築してきたということを証明した。
しかし、実際、オーストラリアの歴史家や政治家は、これまでこのような事実を公にすることはなかった。むしろ、これらの事実をうまく把握できなかったか、する気もなかった。それは、イギリスが植民地後にこの土地を所有していく過程において、その行動の、いや正確にはキリスト教の神における所有物であることの合理性を保つためであった。オーストラリアが誰の手にも所有されていなかった「無主地」ということを示すために、無視されてきた歴史的な事実。それがこのブッシュフードには隠されている。(このスピーカーは土地に最適化されたブッシュフードを植えることで環境問題へのアプローチも行っている)。
これは、約200年前から現在に至るオーストラリアでのストーリーであるが、
土地に最初に住んでいた人々と後から入ってきた人々の間で起こる摩擦は現代においても起こっているし起こりうる。思い切って一般化してしまえば、このようなことが成立してしまうのは、おおよそ、後から入ってきた人々がその人々の中でのみ共有されている価値観のなかで合理化がされ、それが一方的な搾取を可能にする。
このようなことが起こってしまった後にどうするのか、どうして起こってしまうのか、どうすれば防げるのか。
現在のインターン中、このことを学校での食教育を通じて根本的に解消していくための足掛かりとなるものをつくれるように日々頑張っています。
Here is our chance to celebrate the real history of the country and to begin growing the food adapted to the climate and domesticated by aborigines.
Let's get rid of the idea of the hapless hunter-gathered and recognize the ingenuity of the first Australians.
【アクティビストインターンシップ!?開始】
今週の月曜からSarah’s Sister’s Sustainable Cafe というユニークなカフェでのインターンが始まりました。ここでの僕の主な業務内容はカフェのオーナーが主導するアクティビズムのアシスタントをすることですw。彼が行うアクティビズムは、科学的根拠と手法を伴いながら現状を変えていこうとするものです。
この活動に対して、政府機関や大学機関からのサポートも手厚く、様々な知見やアドバイスを日々受けながら活動を行なっています。この4日間で会ってきた人の中では、アメリカのホワイトハウスでの職務経験のある人やポートランドやニューヨークでヘルス分野の政策を行ってきた人、政府機関の映像ディレクターなどなどで毎日が刺激で溢れています。
自分が主に関わっているのがいくつかの学校で行っている「education for sustainability」というプロジェクトです。この中で、特に私が取り組みたいのがコミュニティ全体がオーストラリア先住民(アボリジニ人)に対しての正しい認識を持てるような変化を作っていくことです。
歴史が作り上げてきたアボリジニ人への誤解や偏見が非先住民の中で、現在も深く根付いているのではないかと思います。これには、様々な要因はあれど、第一に正しい過去を知らないことには現状の打破はできません。そのために既存の正しいものとは何かを疑ってかかる必要があります。多くの非先住民が、アボリジニ人の持つ土地に対する価値観と植民地化の後に繰り返し行われてきた「人権」に関わる問題を無視、或いは知らない状況です。
これを教育という抜本的なところへアプローチします。それだけでは留めずに学校をコミュニティのハブとして、より広く、確実にアクティビズム運動を広げていきます(そしてゆくゆくは観光客のような外の人間へも広めていきたい)。
既存の在り方を疑い、誰がそれが正しいと言っているのかを判断し、正しい知識を持って、現状を変えていく行動をする。まさに、アクティビストなインターンシップです。
やれるところまでやります!!
真の感化とはなにか?
現代では、新聞、広告、テレビ、などなど、人の行動に影響を与える方法がたくさんある。
しかし、真の感化とはなにか?
本当に、真の意味での感化を与えることを目的とするのか、小なる目先のことで、できるものを与えるのか。長期的に見たときに、とちらが良いのかは自明のことであろう。
幸福を知性で捉えるということ
幸福を知性で捉える。
幸福感・幸福
この二つの違いはなにか。
幸福感は、感性で捉えることができる。はっぴーーーといった高揚感を伴うもの、これが幸福感の語感だろう。
一方で、幸福は、感覚で捉えることができるものなのかという問いがある。
幸福な状態は、一時的な状態ではないはずだ。
幸福な状態は、全人格的に幸福であるはずだ。
どのような状況になっても幸福であれば、幸福である。
これが幸福の定義ではないだろうか。
幸福感と悲壮感は、幸福な者の中においても両方起きる。
しかし、幸福な者は依然として幸福だ。
そして、この具体的な状態は、どうすればなれるのかは、一般的に定義をすることができない。
一般的にこれ以上の定義ができるとすれば、それは、幸福ではないだろう。
幸福は一人一人において異なるものだ。
これを意識すると、あなた自身の幸福が見えてくるのでないっだろうか。
つまり、どうすれば、幸せになるのかを知性を用いて「考え切る」必要がある。
自分自身で。
市民社会の役割はなにか?
新たな学問の創造
「みんなが輝く観光地論を研究として展開していくためには」
科学として現象を「分析」し、そしてゆくゆくにそれをもって学問的な貢献につなげ、最終的には「現象(社会と人間)の解明」に向かう。
それが世界を理解することなのか、地域社会としての概念を理解するものなのか、公共の場での教育を理解するものなのか、または、観光の一現象としてとらえ、それを観光現象の理解に役立てるのか。
いずれにしろ、これまでの自分の研究の向かう先が、前提として「みんなの輝く観光地」を作るための研究に向いていた。これは学問ではなく、政治的というほうが正しい。
政治やビジネスを学問としてやるとはどういうことか。これも勘違いしてはいけない。政治やビジネスには、それぞれの価値観が本質的に横たわっている。こういう風にしたいとか、こういう姿であるべきだという。そのなかには、美しい願望もあるであろう。例えば、チェゲバラのようなこの世の貧困のような不平等をなくしたいといった美しいものでさえ、学問においてはさらに厄介である。
ビジネスや政治を学問することというのは、それぞれの現象を導いている原因となっているものやその因果関係をいづれかの研究手法をもってして解明をする。そのプロセスにおいては、「事実」があり、その積み重ねによって何かの「理論」が構築されていく。当初から願望から生まれる「目的」をもっていることは、学問の破たんを招くことになるのだ。
学問の信頼とはこのような学問的な特性からも生まれる。
では、このような質を持つ研究を用いてみんなが輝く観光地の発展を渇望する自分はどのように今後の展開を見通すことができるだろうか。
まず前提として二項の確認をしたい。それは学問と実社会という異なる世界だ。
客観的な事実のみを浮かびあげらせることのみが学問にできることである。一方では、客観的な事実のみですべてが決定するわけではない実社会だ。
この両者の違いをわかりながらも、かつ学問と実社会の接合を持つとはどういうことか。
一つの方向性の形となるのは、この両者の組合せ「産学」「官学」あるいは、国際協力と学問の連携の研究である。
この実社会と学問の連携を言い換えると、学問上の何かしらの成果を実社会で行われている活動に応用することである。
この段階においては、学問上の客観的な事実関係よりも実際にどうなるのかが最重要だ。ということはこの両者の接合は、より人間の価値観ということころに根ざしたものであることは間違いのないことである。つまり、この段階では、自身の信条や志を現実を変えるための手段としての学問になるという見方ができる。
学問が現実社会で役に立つというのは、見方を変えるとこういうことではないだろうか。
ところで、そもそも、なぜ、みんなが輝く観光地を立ち上げていくのに学問が必要なのか。
それは、みんなが輝く観光地がある特定の限定的な現象ではなく、すべての人が取り組むことのできるものにしたいという思いがあるからだ。
普遍的に展開していくためには、実社会のリアリティにのっとった、応用可能なレベルにまで抽象度を高めてみんなに共有していくことが必要で、この抽象度を上げるために、研究者としての分析が必要だと思ったからだ。
つまり、新たな「知」を生み出す行為としての研究に興味を持った。
研究を新たな知を生み出すものとしてとらえたとき、そこには、学問としての積み重ねがあることに気が付いた。
知識としいうものは、突然生み出るものではない。
言葉巧みに新しい表現することができることはあっても、知識としての新しさとはまた別のものである。
では、この知識は一体なんなのか。
ここでは、学問が生み出すことができるものであるという規定のみを与えておこう。
学問と実践の融合とは簡単にいうと、この知識を実践に応用することである。
多くの場合、この知識は学問の世界に埋もれて実社会に出てこないことが問題になっている。この点、みんなが輝く観光地理論は、また違ったものであるとの見方ができる。なぜなら、これは既存の知識をただ単に応用するのみではなく、まだない知識を新たに構築していき、しかしそれは、未来の実践においての応用をするところまでデザインされていているからだ。
であるならば、まずする必要があるのは、みんなが輝く観光地の知識の創造をしていくための基盤となる「みんなが輝く観光地論」の構築である。
たとえば、地理学という学問が発展してきたのは、地理学的現象はどんなものなのかという概念が生まれ、こういう方法や分析枠組みで地理学という観点から研究ができるというものが積み重なってそれが学問としての成立となった。さらに、地理学という枠の中にはさらに細分化は進み、社会地理学とか、環境地理学とか、一般的にはほかの学問のディシプリンと結びつく格好で生まれている。
みんなが輝く観光地論はこの点、いかにして位置付けができるか?
ひとまず「観光学」という学問の枠に入っているとする。
そして、これは経営学のようにどうやって観光を管理していくのかというものとも近い。
しかし同時に、どのような現象が人々にどのような影響を与えているのかを分析するという意味では社会学的な要素も強い。さらに、環境の負荷にもかかわることから環境学にも。
このような実践に応用するとこまでを見据えた新たな知識の創造をしていくことは、なにかの「やり方」についての学問的な研究という言い方もできなくはない。
どうすればうまくいくのか。これを学問として行うことは愚行なのか…
こうすればうまくいったという事例を集めることは確かに大切である。しかし、時代は常に変化している。
であるがゆえに、学問的な蓄積にのっとったうえで「提案」ができるようになるといい。それは政策的にも、ビジネスとしても、非営利活動に対しても。
人間を図書館で借りる?ヒューマンライブラリー(Human Library)という取り組み@グリフィス大学
ヒューマンライブラリー
グリフィス大学では、今週「ハーモ二ーウィーク」ということで毎日イベントが行われています。ハーモニーウィークとは、人種や言語や文化が関係なく調和して統合された社会を祝い、多文化共生を呼びかけようという週です。国連が定めた「ハーモニーデー」が3月21日にありますが、オーストラリアでは新たに「ハーモニーウィーク」を呼びかけ、国中で一週間かけて多文化社会の意識向上の取り組みを行っています。
そして今日、待ち待った「ヒューマンライブラリー」というものが開催され、参加してきました。
【目次】
ヒューマンライブラリーってなに?
ヒューマンライブラリーとはその名の通り、人間を借し出す図書館です。
The Human Library Organization is a global movement working to build spaces in the community for personal dialogue about issues that are often difficult, challenging and stigmatizing.
We publish people like open books on a given topic. Our readers ask questions and get answers from their "book".
We and our local partners deliver events in civil society through libraries, universities, festivals, high schools, colleges, conferences and social happenings.
Currently the Human Library has been presented in more than 70 countries worldwide. (Facebook page, the human libraly organization)